鉄玉郎は怨霊女子大生の身体の変化を見逃さなかった。幽霊ということだけあって、クラゲのように透明なのだが、透明度が落ちて来たのだ。まるで、真夏に大発生したエチゼンクラゲが、砂浜に漂着し日光を浴びて乾き、固くなって行くように……。鉄玉郎の歯槽膿漏で弱った歯茎などから出血した、不潔な霧状の鮮血を浴びて、若い女の肌は、ぬめぬめと、淫らに光っていた。鉄玉郎は、罪のない子供を惨殺した爽快感を一瞬で忘れ、すぐさま、中段の突きを女子大生のむちむちした乳房に入れた。わずかな手応えがあった。むにゅっとしたのである。
怨霊女子大生は、狼狽していた。(この男の突きが当たったッ! 気のせいではないッ! 幽霊を殴るですって? そんな非科学的なことが、この世であり得るの? そ、そんな馬鹿な……。不可能だ、不可能すぎる。そんなこと、人間に、できるはずがないッ!) 確かに人間には、できるわけはない。だがしかし、この異常な男、本当に人間だろうか?しっぽが生えていても、おかしくはない。少なくとも、人間の心を持っていないことは、確かである。……幽霊より、非人間的なくらいだ。このような奇人は、肉体も常識では考えられないほど、超自然的なのではないだろうか。幽霊女子大生の水ようかんのような脳みそは、止まらない妄想で破裂しそうになっていた。一部のヨーガの達人などは、精神の力で己の肉体を自由に変化させると言う。このような領域に、この男も達しているのではないか。
また、病は気からと人は言う。心の動きが肉体に変化を与えるのは、昔から知られている、科学的にも実証された事実である。この男が、何度も当たる訳のない突きや蹴りを入れていたのは、理由があったのではないか。私は愚かしいと笑って見ていたが、この男は、爬虫類や昆虫類にしかありえないような、一〇〇%の自信を持って、技を繰り出していたのでは。そしてさらに、突きや蹴りを繰り返し放つほどに、自信は強固な確信に変わり、『当たらない方が、おかしいのだッ!』 というような境地に達していたのではないか。そのような心の動きにより、もともと白亜紀の原始生物に近い肉体を持っていた男に、物理的な変化が訪れたのではないだろうか。人間よりも原始的なのだから、進化の速度も速いのだッ! 原始人めッ! もはや、その思考は、科学的、論理的なものから、すっかり逸脱し、完全なる偏執狂のようになっていたが、女子大生は自らの頭の暴走を止めるすべを知らなかった。女子大生の幽霊は、身の毛がよだつような恐怖に支配されていたのである。
(あたしは、この狂人に殴り殺されるッ!)
という考えが、女子大生の頭を一瞬よぎった。一瞬だったが、そのとたん疑惑は確信に変わった。彼女はこの怪人に自分が殴り殺されることが、事実としか考えられなくなったッ! あな、恐ろしや、人間の思考の落とし穴。幽霊と言えども、精神の動きの基本パターンは、人間と同じなのである。そもそも、当たり前の話だが、霊なんてものは、この世には存在しないのである。ところが、感受性の強い霊感を持つ人間たちが、『出る』という評判の場所に出掛け、何度も繰り返し『ここは出る』と思い込むことによって、本当にそれが存在し始めてしまうのであるッ! これが霊現象の正体である。簡単に言えば、人間の作り出した外部への思考投影物質化現象なのである。この現象により、霊魂女子大生が、この廃墟の中で誕生したというのは、前述した通りである。言わば、恨みがお母さん、恐怖がお父さんである。悪の両親に育てられ、彼女はここまで強大に成長してしまったのである。
ところが、怨霊よりも邪悪な二本足の爬虫類、鉄玉郎に、彼女は恐怖心を抱いてしまった……。さて、それはどういう現象を引き起こすのであろうか。もともと幽霊などという殴りようがない存在だったのに、彼女は自分が殴り殺されるに違いない……、と思い込んでしまった。すると……、彼女は……、物質的にも殴られる存在に、化学変化してしまったのであるッ!
「ずいやあああああああああああッ!」 覚醒剤で口から泡を吹いているヤクザでさえ、泣いて謝りそうな恐ろしい怒号を上げ、鉄玉郎の正拳突きが、幽霊の顔面にめり込んだッ!
ぐしゃッ!
スイカが割れるような音がして、彼女の前頭骨が砕けた。ひどい眺めだった。どれほどの、狂乱の一撃だったか……、深く顔にめり込みすぎて、鉄玉郎の拳が、なかなか抜けなかったほどである。泥沼に長靴がはまって、抜けなくなったことがあるだろうか。その柔泥の呪縛から逃れ、ようやく長靴が抜けた時のような音を立て、拳が顔から抜けた。折れた前歯が、指の肉に突き刺さっていた。小粋な指輪のようだった。美しかった女の顔に、ロシアのツングースカのクレーターのような巨大な穴が開いていた。女が呼吸をするたびに、赤い牛バラ肉のようなものが、びらびらと揺れた。してみると、ここが鼻や口のあった辺りなのだ……。女の身体は、肉のみならず心臓を始めとする臓器一般も復活させたらしい。穴の中に豆腐のようなものが見えた。いぶかしげに鉄玉郎は見ていたが、それが脳みそとわかり、食欲をそそられた。
「痛いッ! 痛いッ!」 彼女は、顔の割れ目から脳みそを巻き散らしながら、苦痛に床を転げ回った。確かに、とても痛そうだった。しかしながら、彼女は先ほどまでは、痛みすら感ずることのできない、生命感のない存在だった。それが痛みを感じることが、できるようになったのだから、その神の采配を感謝すべきではないか。しかし、とてもじゃないが、感謝してるようには見えなかった。その光景は、まさに……地獄ッ! 閻魔大王だって、この現場を見たら、気持ち悪くなって、目を伏せるに違いない……。ところが、床の上で顔を上げた彼女の目に飛び込んで来たのは、鉄玉郎の勃起した性器だった。なぜか、鉄玉郎はチャックを開け、オチンチンを出していたのだッ!
(こ…この男……、気持ち悪いッ!)
彼女は、不快さのあまり、げろを吐いた。肉体的に人間化したばかりなので、出るのは胃液と血の入り混ざった粘液だけだったが、それが、すでに鼻も口も一体化していた彼女の顔面クレーターから、マグマのように吹き出した。ぐぼぐぼぐぼ、と地獄の底の腐った沼のような音がした。げろが、彼女の気管を塞いだ。息ができない。心臓など蘇らなければ、良かったのに、と彼女は思った。残念ながら、彼女は鉄玉郎のように、皮膚呼吸やエラ呼吸では生きて行けないようだった。彼女がこの世で最後に目にしたものは、自分の顔面に向かって飛んでくる鉄玉郎の精液だった。
鉄玉郎は自分の背後で物音がすることに気が付いた。オナニーに夢中で、危うく見逃すところだった。振り向くと、ふらふらと這って逃げて行く先ほどの、汚い子供だった。頭の角が扁平にへっ込んでいた。よく生きているなあ、と鉄玉郎は呆れた。貧乏人だから、じょうぶなのだろう。
「ごきぶりめ……」 オナニーしながら、鉄玉郎は小声で呟いた。朦朧としていた子供は、この鉄玉郎の声で喝を入れられたように、ビクリと震え、重度の脳挫傷にもかかわらず、矢のような速さで部屋から這い出して行った。鉄玉郎は、今まさに射精する瞬間だったので、子供にとどめを刺すことができなかった。つくづく、それは残念だったが、射精は気持ちよかった。
「うっ! うっ!」
恥も外聞もなく、大声で喘ぎ声を上げて、射精する黒岩鉄玉郎、四四歳。「ふう、たくさん、出た」
満身の笑みで鉄玉郎は微笑んだ。足下に、顔面がメンチカツのようになった女がいなければ、爽やかに見えるほどだ。女の顔は、入り混ざった血と精液で、溶けたイチゴパフェのようになっていた。おいしそうだった。しかし、あまり笑ってるようには見えなかった。
435枚目。ほぼ終わり。
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